愛の日記


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5月26日 女楽 紀尾井小ホール 2017年05月21日(日)

今週の金曜の夕、紀尾井小ホールにて「女楽」という催しがあります。内容は「六条院の薫物合せ」で、源氏物語の梅枝という巻をもじった内容です。

舞台の内容は三部になっていて、第二部は管弦を楽しむ内容です。酒を飲みながら、管弦を聞き、歌を歌う、、、光源氏、蛍兵部卿宮、柏木、夕霧、弁少将の5人が即興で歌を作り、それを詠み上げ、披講するのですが、そこに私も参加します。

雅やかな源氏物語の世界が出せるかどうか、、、私は柏木の役ですが、源氏の君の隣ということもあって、緊張しながら歌うことになるのでしょう。

梅枝の巻きの時期を尋ねたら、女三宮の不貞事件よりも前だということでしたので、多少安心しました。

まあ、そこまでの演技は求められませんが、披講には一応責任があるので、今週も練習に励みます。

金曜日の夕、チケットに余裕がありますので、源氏物語やもしくは和歌の披講、管弦に興味がある方はぜひいらしてください。

明日、カートでチケットご予約ができるようにいたします。ご予約いただけましたら、当日、受付にてチケットをお渡しする形となります。前売り価格4000円です。(当日券5000円)

場所はニュー大谷前にある紀尾井ホールの小ホールの方で、午後6時開演です。

ところで今日はオークスでしたが、オークス出走を夢見た馬が一頭。残念なことに出走条件の抽選に漏れてオークス出走はかないませんでした。

でも、昨日の京都のレースに出走して優勝した、アルメリアブルーム、、、良かったですね。MIチューナーを聞いてくれているお馬です。優勝おめでとうございます。

私の夢のひとつに、日本のどこかに馬の町や村があり、そこに行けば、車の往来はなく、町はすべて馬車や馬の電車が走っている、、

その町に暮す人は、すべて交通機関は馬で、きれいな馬車もあれば、郵便配達の馬、幼稚園生をたくさん乗せた馬車、乗馬で散歩の女性はとてもきれい、男性はたくましい、、二人乗りの小さな馬車には、ご老人の夫妻が楽しそうに乗っている、、、

そんな町だから、アスファルトではなく、土が見える、、、石畳が見える、、道のサイドは花や緑でおおわれている、、、

商店の前にはゆったりイスがあり、人々はいつでもそこで談笑している、、、馬車の駅前には、芸術学校の生徒たちが日本中から集まって、演奏をしたり、歌を歌っている、、

楽しい発表の場であり、喜びを共有する場ともなっている、、、

町に住む中高生はゲームに熱中するよりも、町に出た方がずっと楽しいのか、いつしか町にも道にもおおぜい出てきて、大昔のシャッター街もいつの間にか息を吹き返している、、、

店には、どこでも売っているような物ではつまらないと、どこもそこにしかないようなものばかりが置かれている、、、手作りの物も多い、、すべてが一点物のセンス良い服装店、手作りの甘味屋では、フランチャイズの味や雰囲気に嫌気がさした人で埋まっている、、

夜になればローソクシャンデリアなどが店頭に灯され、ロマンティックな光があふれる、、、仕事帰りの男女は自然とお酒など飲みたくなり、男女の出会いが自然と広がる、、

明日もあの人は来るかな、、、来てくれるかな、、、と、日々の楽しみが、仕事の労苦しかなかった昔とあまりに違って、若者は笑いだす、、、

家に閉じこもる老人はいなくなり、誰もが、いくつになっても、ときめくことを知る、、、

馬、、、馬、、、動物の力。それをいかに私たちは経済でしか考えて来なかったか、、、その上、経済でも失敗するかもしれないという現代の矛盾。

幸福なイメージが足りないのです。不安を付かれ、それについ騙されて現状を肯定してしまう私たち、、、、そして段々と悪くなっていく時代。

無にしか現実を作る力はありません。私たちの思い、、意識がすべてを生みだすのです。

だから、楽しい生き方、、幸福な生き方のプランを、町づくり、村づくり、国づくりに、生かすイメージが必要です。

このままでいいのですか、、、あまりに悲惨ではありませんか、、
本当にお金だけで人は幸福に生きられますか?

教わってきたことは、もしかしたら、すべて嘘だったのかもしれません。だまされたまま、癌病棟で死んでいくことを当たり前の人生にされてはかないません。もっと違った生き方があると思います。

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祈りは作用 2017年05月11日(木)

祈りは作用 

先日のブログで、法則や真理はひとつで、それが作用と反作用であると語りました。

作用と反作用は物理的な世界においてはもちろん、精神世界はじめ、霊的世界にも至る、共通の唯一の法則であり、宇宙にどんな宇宙人がいたとしても、どんな世界で生きている動植物であっても、この作用と反作用の法則の元に存在しています。

地中深い世界であれ、海底深い世界であれ、地上であれ、上空であれ、宇宙空間であれ、木星の上でも、太陽の上でも、スピカでも、そこがペテルギウスの上でも、変わることのない唯一の法則なのです。

この世において、いえ、あの世においても、現象が勝手に起こることはないのです。あらゆる現象には、それを生じさせたところの作用があるのです。作用と反作用、これが唯一の法則です。

そのうち、物理的な作用は目に見えますが、物理的な面が小さければ小さいほど、潜在的な作用となり、もたらす反作用の力は大きくなるのです。

しかし、私たちは目に見える世界の存在を大きく感じるため、物理的で巨大で力ある作用が大きいと勘違いするのです。

10キロの力をどこかに加えれば、10キロの力で押し返します。10キロの力を加えるのが作用であり、10キロの力を押し返すのが反作用です。そして10キロが拮抗している地点ではエネルギーが発生しています。

人間も体重をささえてくれる反作用によってエネルギーを得ているわけです。歩けば各関節で重力が拮抗し、ギャップがたくさん作れます。ですから、歩くから疲れるというのは嘘で歩かないから疲れるのです。エネルギーを得る作用が少ないためです。

このように重力による作用はわかりやすいのですが、さらに風による作用があり、水流による作用があり、磁力による作用があり、光による作用があり、音による作用があります。重力、風、水、音、磁力、光、どれを使っても作用を起こすことができます。作用が起きれば、必ず反作用が出てきます。

火を使ったギャップづくりで私はローソクストーブを作りましたが、たった2つか3つの小さなローソクで、30坪程度の家一軒を快適でエネルギーが満ちた空間に変えることができます。

物理的な現象面が小さいほど、潜在的な作用となりますので、重力によるギャップよりも風によるギャップの方が、さらに光によるギャップの方が、さらに音によるギャップの方が、潜在的に大きな作用であり、大きな反作用を起こす力があります。

重力の作用を使っての癒しには、肩をもんだり、叩いたりすることがありますが、その場合でも軽くたたいた方が肌は無理ない反作用が可能となりますので、副作用のないエネルギーが補給されることになります。

強く押したり、強く叩くような作用だと、肌や人体は反作用が自然にできず、体を硬化させて守るしかなくなります。強いマッサージに慣れた人の体が硬いのはそのためです。

静かに押したり、揺らしたりしていれば、副作用を伴うことなくエネルギーが得られるのです。

作用自体の質も問われます。強いマッサージよりも弱い刺激が上ですし、さらには、重力による作用よりも光による作用を肌に送れば、よりエネルギー補給が可能となります。

私が開発した懐中電灯による光エネルギーの得方がそれです。光教則本でこうした原理について語っています。さらに音による作用は高度です。チューナーは1秒間に528回の振動作用をもたらすもので、極めて高度なのです。その振動を止めようと反作用が開始します。

そしてついに物質的な作用を超えた意識の作用があります。物質的な作用も元には意識があるのですが、物を通さない意識作用の大きさについて語りたいと思います。

古くから私たちが行っている意識による作用のひとつに祈りがあります。

祈りは、意識そのものです。意識の作用は高度な反作用の世界からの反応をもたらしますので、物理的なものよりもずっと大きな反作用が与えられます。

ただし、意識の質が問われることも事実です。その意識がどこのどういうところに向いて発せられたのかによって、帰ってくる反作用が違うのです。

悪いことを考えれば悪いことが起こり、良いことを考えれば良いことが起こる、とよく言われますが、構造としては確かにその通りだと思います。

しかし、この考えの限界は、すでに良いものを自身の意識が決めている点です。この世的なのです。物の安定や物の増加や物の永続を願う構造が先に価値観としてあるのです。
良いことを考えれば、、、の次に来るのは、大体はこの世的な願望です。その意識は自分は物であるとの大元の意識を増長させますので、祈りとは違うのです。物質的な願いの世界です。

もちろんそれが悪いのではありません。ただ構造がそうであるということです。願いはその動機に沿った反作用が与えられるのです。なので、必ずしも幸運が訪れるかどうかはわかりません。

では、祈りとは何でしょう。作用としての祈りは、自分を超えたところにあります。それは私たちであり、この世であり、この世界であり、この宇宙であり、真理であり、、、要するに一体の世界へ向けられたものが祈りです。

祈りの基礎には、すべてはひとつです、、、の絶対信仰のような姿勢があるのです。少なくとも、祈りの守護は私ではないのです。私たち、、、もしくは誰かであったり、自分のこととは違うのです。

この作用は偉大です。自分を忘れ、自分は他と一体であるとの中から出る祈り、、、このもたらす反作用は大きいのです。

現在の地球も人間も悲惨な状態にあるのは、この視点からの、この姿勢からの、この意識からの祈りが不足しているからなのです。願いは無数にありますが、祈りが足りないのです。祈りの作用が足りないので、地球はエネルギー不足に陥ってしまっているのです。

私たちが未熟でなかなか成長しないことが、現代の大きな問題の根底にあります。それも祈りの視点から見れば、わかりやすいことです。なぜ、私たちは成長できないのでしょう。いつも自分のことで苦しみ、不安がり、うまく行かないと思って、自分のことばかりで悩むのでしょう。

人は何か大きな存在に依存できている時、安心感が訪れるようになっています。最初は両親への依存です。これはとても自然なことです。依存を悪く言う人がいますが、依存自体は自然なものです。しかし、依存してはならない状況や、依存だけでは成長しきれない面が成長とともに出てきます。

私たちがあるものからの依存から抜けるには、さらに大きなものへの依存が必要です。

これが、本当の意味での親離れとなります。具体的に言いましょう。

自分のことばかりを悩んだり悔やんでいて、幸福でない状況にいる人は、依存できるものがないためです。依存してはならない状況の中でも、今なを依存対象を求め、母や父に文句を言っている状況と似ています。

具体的な依存という場合もあれば、心理的な依存もあります。

私たちが幸福になるためには、この依存の心理を克服することがどうしても欠かせません。
それが祈りになのです。

誰でも子供時代は自分のことしか考えません。しかし、ある程度成長していく中で、自分にも心理的な力量がでてくるのが実は自然です。

その際に、親が大変であったり、親が心配であったりして、切なる思いで、親のために祈ることを体験した人は、依存という大きな問題をクリアしているのです。

いくつになっても、親への不満と自身の不幸にさいなまされているひとは、本当の意味で、親のために祈ったことが一度もなかったのです。ただ自身の不満が関心事だったのです。

親のために祈れなければ、その後の出会いでも同様のはずですので、この構図は長引きます。親に限らず、何か自分自身以外のために、切に祈るという経験をしたことない人は今なを不幸なのです。

祈りという小さな作用がもたらす反作用のエネルギーは大きいのです。自身を忘れて相手を思うことは、命の一体との作用となるので、とても大きいのです。

反作用の大きなエネルギーによって、私たちは本当に成長し、悩むことがあってもそれに負けない人として育っていくようになっています。

自分と他が一体であるとの視点から出た作用のみが、この世を楽園に変えてくれるのです。

そのことが自然ということなのです。不自然に生きれば、つらく苦しくなります。自他をことさら分ける生き方や意識が不自然なのです。

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真理は簡単、単純。 2017年05月10日(水)

世の中には色々な真理があると思いますが、真理なので、本当はひとつしかありえません。

この宗教が真理である、、この考えが真理であると、長い歴史の中で色々と語り継がれ、説かれ続けたことは事実でしょう。

真理を法則と言い換えることができたら、唯一の法則がもしかしたらあるかもしれません。

私はあると思っています。それは極めて単純なもので、その応用も極めて簡単です。

真理というとオーバーになるので誤解を招きますが、やはり真理としか言いようがありません。

私たちは誰もが、その唯一の真理によって実は存在し、生かされ、ここにいるのです。

私たちの体を動かしているのも、自動車を動かしているのも、電車やバスや新幹線や飛行機を動かしているのも、まったく同じ真理です。

私たちは食物からエネルギーを得ていると思っています。飛行機は燃料で飛んでいると思っています。

何か、外部にあるものからエネルギーを得て存在したり、運動を起こしていると、かたくなに信じ切っています。

本当にかたくななのです。物がある以上、その物が生じた原因があるはずです。その原因の方が真実だという単純な話しなのです。

真理や法則はひとつですが、現われは無数です。物や現象に真実を求めるから、大本のそれが分からなくなるのです。

物や現象からそれに近づこうとするのが、科学や知識や勉強や学問です。

反対に大本の働きを見つめようとするのが、宗教や形而上学やこの数十年流行の精神世界への追求でしょうか。

しかし、どちらも同根なのです。どちらの考えを取るかの姿勢を生じますので、どちらを取っても同じことになります。

宗教や形而上学や精神世界への関心があっても、物の世界を離れることはできませんし、実際に私たちは物の世界に存在しているのも事実です。

宇宙ですら、大きな物ですから、そこでどんなに不思議なことが起きていようとも、そこに神を求めるのはどこかおかしな気がします。

しかし、宇宙は本当に壮大ですから、イメージとしては神に近いものを感じるように、誰もが思うのも自然でしょう。

また、精神世界や見えない世界を追求した際に出会う、霊的な存在もあると思います。実際に体験された人も多いでしょう。

それこそ、お化けから神霊まで、様々あるのだと思います。

宗教家や芸術家、直観で仕事をする人などは、そうした世界に出会っているのかもしれませんね。

物の世界、霊や見えない世界は、確かにあると思います。

私自身はお化け程度は見たことがありますが、特別な体験をしたこともないし、霊的な世界に関して何も知らないと言ってもいいと思います。

しかし、物の世界がある以上、それを生み出した世界があることはその通りだと思います。

そして、大事なのは、真理や法則は、そのどちらの世界でも同じように働いていなければ、法則でもないし、真理とも言えません。

宗教家が、私だけが知っている、、、という世界がもしかしたらあるのかもしれませんが、真理や法則にかなっているかどうかで、それはすぐにでも判断できると思うのです。

真理や法則にかなっていないものは、真理や法則でないものが生み出した結果でしかありません。

あの世とこの世、霊と物質の世界の両方にすべてに、共通する真理と法則があるはずです。それは当然、地球人にも宇宙人にも共通する真理と法則のはずです。

それは、もっとも簡単で単純なものでなければ、共通因子とはなりません。

頭が良い人が絶対に到達できない単純なものなのです。学問を学べば学ぶほど、遠ざかる真理や法則ともなるでしょう。

何でお前がそんなに偉そうに言うのかと、いぶかる方もいらっしゃると思います。当然のことです。

私が発見したのではなく、私はこの真理と法則を飯島先生から感化されたにすぎません。

真理と法則はたったひとつなのです。それは、作用と反作用なのです。ただそれだけで、それ以外にないのです。

作用は物質的作用から心理的作用、意識作用まであります。それに対して、必ず、反作用が現れます。

これが法則です。因果によって、、と説いた釈迦ですが、その通りだと思います。因果の法則はその通りですが、あくまでそのことを私たちは善悪論として理解しているにすぎません。

作用と反作用が物質界、精神界、霊的世界に至る、原理であり、すべてに共通する真理です。

作用がないものが、勝手に反作用としてあらわれることなどありません。物質でいえば、それをあらわしめた原因、すなわち作用があった結果として存在しているのです。

物質に限った話しではありません。あらゆる現象も同様です。犬も歩けば棒に当たる、、と同じで、何かをすれば、何かを得るのです。例外はありません。

何かをするとは、物質を通してする作用もあれば、精神的、意識的作用もあります。

物質は粗い組成ですから、物質的作用の度合いが高ければ、すぐにわかりやすい反作用が出てきます。物質的作用の度合いが低くなるほど、時間や場所の制限がなくなりますので、一見、反作用の出方が遅いとか、よくわからない、、と思うケースはあるものの、結果規模は増大するのです。

物を動かして得る反作用より、意識的作用の方が大きな反作用をもたらすことになります。

海の砂の色をペンキをまいて変えるには、膨大な作用が必要ですが、砂粒の一つ一つが、みずから色を変えたくなったら一瞬で海の砂の色は変わります。

小さな作用が大きな結果を生むのです。トラクターで物質的作用を起こしても、それに対する反対の意識が増えたなら、絶対にそれはうまくいかなくなります。物質がつくる作用よりも意識作用の方が強いからです。本質的なのです。物質は意識に従う順番があるからです。

何で偉そうにお前がそんなことを決められるのか、、、と思われるでしょうが、私が偉そうに言っているわけではありません。

食事をするのも、会社に行くのも、映画館に行くのも、行こうか、、、生きたくないけど、仕方なく行こうか、、、の意識があるからそうなっているわけで、私たちを動かしているのは、意識です。

肉体はそれに従っているだけです。世界も同じです。宇宙も同じです。見えない小さな本質的作用に世界は従います。

しかし、何であれ、作用に対して、反作用が法則なのです。

作用が起きれば、何が生じるでしょうか。ギャップです。もともとあったところに、何等かの作用があれば、もともとあった平穏なものとの間にギャップが生じます。

ギャップがしょうじれば、宇宙は反作用を始めます。元に戻そうとする力が、反作用の力です。

この世で出した作用は、それが物資的な作用であれ、意識的な作用であれ、必ず、反作用をもたらします。すべてを元に戻そうとする反作用は、すべてはもともと一つであるというところから来ていますが、それは自他のない、とらえどころのない大きすぎる愛と言ってもいいかもしれません。とうてい名付けられるようなものとは違います。

一体、、一つ、、、だから反作用が必ず起こるのです。

作用は誰もができることです。その作用によって私たちは宇宙を動かしさえしているのです。

作用すればギャップが生じます。ギャップを元に戻そうとして反作用の力が訪れます。それが本当のエネルギーです。

甲州街道のケヤキの並木の話しを以前にしたと思います。甲州街道を通るたびに、ああ、これが土の道で、馬車だったら、どんなに幸福だろう、、と毎回思うのですが、あの大きなケヤキは、どこからエネルギーを得て成長したのか、、、の不思議。

周囲はすべてアスファルト。水は地下水としても、どこからも栄養素が得られない場所で、ケヤキは成長しています。

その理由は、無数の葉がつくるギャップです。風が吹くたびに無数の葉が揺れ、周辺の葉もゆれ、葉と葉、葉と周辺空気、葉と周辺の音との間に、複雑なギャップを常に作り続けます。

ギャプができれば、そこに反作用によるエネルギーがもたらされますので、ケヤキはそのエネルギーを得て成長しているのです。

葉が冬になって落ちれば、木には、夏の間に得た葉からの残存振動のイメージが残り、木自体も計測できない微振動を発します。

物理現象が少ない方が偉大な反作用をもたらしますので、木は冬場に微振動ギャップによって得た膨大なエネルギーを蓄え、春になると一斉に無数の葉を出し、一瞬にして青々とした葉へと成長させるのです。

そう、真理は簡単です。そして単純です。あなたも、手を振動させ、体を振動させ、腕を振動させ、腹を振動させる、、、たったそれだけのことで、無限のエネルギーを反作用として肉体に呼び込めるのです。

嘘だと思うのなら、それをやってご覧なさい。文句はそれからにしてくださいね。

ただし、運動よりも意識は優先します。それでも揺らせば必ずギャップが生じますので、疑いつつでもいいから、やはりやってみてください。

揺らせば、血行が良くなるとか、筋肉がやわらぐから、当然いい、、と頭が良い人は考えることでしょう。

それが実は無知なのです。それだと、何かが起きた時にすぐに化学や科学や学問を優先させ、結局は人並みな結論に達して、真理から遠ざかります。

法則を理解しているかどうかです。法則を理解した上で、行うことには、意識圧がかかりますので、驚くほどその法則への信頼を増すでしょう。

血行が良くなるのも、筋肉が柔らかくなるのも、結果なのです。本当の原因は、エネルギーを取り込めたからです。

ギャップを解消するために、反作用が訪れ、それがエネルギーを得る唯一の方法になっているのです。

エンジンが動くのも、最初のスターターの作用が連続してギャップを作るからです。このことがわかれば、本当はガソリンは不要になるはずです。

エンジンのことは素人なのでよくわかりませんが、作用に対する反作用によってしかエネルギーは訪れません。

UFOを見る場合でも、それが燃料や物質的な作用によって飛ぶ面が大きなものは、そんなには優れていないはずです。物質的な作用から遠ざかるほど、良い飛行機になっていきます。

飯島先生が作った模型飛行機は、操縦が困難になると、操縦装置から手を離します。すると飛行機は勝手に体制を立て直して困難な状態から脱出します。

法則にかなったものは、勝手にエネルギーを得て、勝手にうまくやるのです。

簡単で単純なものにしか真理はありません。

体を揺らすだけで、エネルギーが入るのです。しかし、このことを本当に理解しておかないと、必ず副作用でやられます。

健康とは、副作用を伴うことなくエネルギーを得ることで達成するのです。

揺らせばエネルギーが入るのは事実ですが、それをやれば、効果を焦ったり期待し過ぎるため、揺れを大きくし過ぎるなどの、冥王星バイアスに私たちはとらえられます。

そして揺らし過ぎ、、、力の入れすぎ、、、副作用で体を壊すのです。高齢者の方がヨガをされて体に負担をかける姿を見て、心配になることがありますが、副作用に負けてしまう心配があるからです。

太ったいかにも成人病体質の方が、赤ら顔して連休などには、公園でマラソンしたりしています。必ず、副作用でやられます。

スーパーマン願望による、冥王星バイアスで私たちは副作用を招くのです。ひとつなんです。すべてはひとつなんです。偉い人も偉くない人もないのです。

すべては一つなのです。その原理が反作用の出どころとなる愛なのです。しかし、作用に力が入りすぎると、個や特別感が優先されてしまうのです。それがあらゆるものに終焉をもたらす本当の原因なのです。

反作用を得るとは、ひとつである大きなものの受容に他なりません。それによって、私たちも宇宙人も聖人も俗人も、皆生かされているのです。この真理以外に真理はないと思うのです。

ふるべ、、ゆらゆらとふるべ、、、

古神道の呪文ですが、真理を物理的にも霊的にも語る言葉です。だから死人すら生き返ったというのでしょう。

ゆらゆら、、ですから、副作用のない揺れ方が連想できます。

永遠のエネルギーを得る方法になっているのです。


ふるべ会のご案内

ふるべ会を開きたいと思います。実際に体を振動させ、その原理を学び、実践することで、普遍意識を体現する会合です。

毎月 第二、第四金曜日の午後6時から8時ごろまで。6月から開始する予定です。6月の9日、23日となります。以降、第二第四金と続きます。

日時 初回は6月9日 午後6時から
場所 SHOPマドモアゼル・愛 人数が多い場合はアトリエで
会費 1500円 軽食準備あり 当日徴収
持参 チューナーをお持ちの方は一本お持ちください。なくても問題ありません。
お申込み SHOPマドモアゼル・愛まで、当日の午後3時までにお電話にてお申込みください。1名以上で開催します。

ふるべ会についてはカートでのお申込みはありませんので、直接お電話にてお申込みください。



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連休連続セミナーを終えて 2017年05月06日(土)

大変お待たせいたしました2017年の春分レポートを本日お送りいたしました。一斉送信のやり方に不慣れなため、間違って二回送ってしまいました。同じものが二度届いていると思いますが、大変申し訳ありません。こちらサイドのミスです。ダブル登録とは違いますのでよろしくお願い致します。

連休も明日でおしまい。3.4.5と三日連続でミニセミナーを開きました。食事によらないでエネルギーを得る方法、、という題で開催。

フリーエネルギーの話し、どうすれば無から私達はエネルギーを得ることができるのかの、具体的な話しと実践で盛り上がりました。

生涯の宝になりました、、、と喜んで下さった方もいらして、やってよかったです。またこうしたミニセミナーの機会を今後も続けたいと思いました。

本日もお客様と話しあっているうちに、内容が段々とセミナー風になり、まるで「石膏セミナー」になったようです。

石膏はフリーエネルギーとは異なりますが、電子をおそらくたくさん発生させるのでしょうか。熱を取り去り、炎症を抑える働きがあると言われます。

温泉にはよく石膏泉がありますが、ぬるく感じるものの、出ると体が温まるようです。

電子をたくさん発生させれば、周辺から熱を奪うので、火も熱くなるなる現象が起こるはずです。太陽は熱くない、、、という人が結構いますが、おそらく本当だと思います。

まあ、実際のところはよくわかりませんが、少なくとも私達は常識の中で暮らしていますが、本当はかなり違っているということだけは想像できます。

私達の考えと実際には、大きな隔たりがあると思います。隔たりというよりも、真逆なのです。

物には何の力もなく、物は意識の結果としてそこに生じる、、、自分は意識であって、肉体ではない、、、という常識の逆転から考える時代がこれから訪れるのでしょう。こういうと、肉体も大切だ、、と考える人も多いですが、それは当然なのですが、視点の相違ということでお考えください。そして、物と霊との間には、順番があることも大切な要素です。まず、先に意識あり、です。

そのことを出口王仁三郎は霊主体従と言いましたが、体主霊従の時代は行き着くところまで来たのだと思います。

今回のセミナーでも、意識って、何ですか、、感情は意識なのですか、、、との質問がけっこう出ました。

意識は、物事や現象の見方を言うのです。自分が怒っていれば、自分は怒りに身を任せた場合もあるでしょうし、怒っている自分を知っている場合もあります。無意識な行動か意識的な行動か。

その違いは意識によるのです。常に何等かの意識をもって、私達は活動しています。活動を生むのは意識です。どうのような動機で物事を行うのかも意識が決めます。

いつもお金のことばかり考えていれば、絶対に損しない選択をその人はします。それでいて、そのことに気づきません。自分は本当に損することを絶対にやらないのだな、、、と意識されていれば、行動が選択できるようになるので、たまには、損してもいいやとの行動や選択ができるようになり、前よりも自由になれます。

表現されたものが意識ではないのです。それを生んだものが意識です。同じことをやっていても、意識が異なる場合は多いわけで、やっている事柄によって意識が決まるわけではありません。

自分をどの地点でどのレベルで認識しているかは、意識が決めています。自分を知るとは、意識が高まることです。

これには終わりや完成はありません。意識は常に高くなる方向に進みますので、喜びと似ています。

人を殺して喜んでいた人が、人を助けることに喜びを見出したら、もう以前の自分には戻れなくなります。

自分は日ごろ、どのような姿勢で仕事をし、どのような暮らしをし、どのように人と付き合っているのか、、、、そうしたことの理解は、意識によって違ってくるし、実際に違って見えるわけです。

すべては意識であって、意識されている事柄は、どんなことであっても私達を不幸にさせることはしません。

無意識に動かされて自分を失っているとき、私達は不幸なのです。リアルに触れることができないためです。

物には何の力もない、、、このことは、突き詰めれば、自分は意識であるということに他ならなくなります。

季節の良い連休の三日間、連続で皆と意識について話し合えたことは、本当に幸せでした。ありがとうございました。

SHOPマドモアゼル・愛は、日月お休みで、火曜から通常の営業です。

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