愛の日記


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いよいよ、、、 2015年09月30日(WED)

  いよいよ近づいてきました、、、スプリンターステークス。

私の予想が世界中を駆け巡る(日本の一部だけか)記念すべき日だ。

でも、担当の方からまだ何の連絡もない、、、まさかキャンセルなんてことないでしょうね、、、

そうなったらもうニッポン放送の人生相談にもいかないから、、、

本番が始まるのが午後2時半。メインレースが3時45分ごろ。番組は午後4時までということでした。

私は朝から行って万全の体制で本番を待つ次第。仕事でこんなに真剣に考えたことないよ。

4日の日曜競馬ニッポン。ぜひ聞いてください。
 


宇宙人における人間の位置 2015年09月25日(FRI)

  プレアデス、シリウス、アルクティールス、太陽惑星系、そして地球地底人に至るまで、色々な宇宙人がいるようですが、宇宙人における人間の位置はどの程度のものなのでしょう。

ステルス戦闘機もUFOも、ナチスの高度の科学も、ほとんどが宇宙人からの知恵入れだったということですので、そうなると宇宙人は地球人よりも知的にかなり優れているのかもしれません。

しかし宇宙原理はたった一つしかありませんので、どんなに優れている宇宙人でも、そんなに優れていない宇宙人や地球人でも、同じ原理で生きていることになります。

優れているものは、必ず、無からのエネルギーを反作用によって得ていますので、宇宙の優れた文明や科学は、それをメインにした構成をしているはずです。

物には大きな力はなく、意図によって、意識によってすべてが創造されていますから、優れた宇宙人の文明やありようは、意識圧によって保たれていると考えられます。

とはいえ、地球を支配しているらしい宇宙人のやり方には、テクノロジー重視の傾向が伺えます。

テクノロジーのみの発展はありえるのでしょうか、、、私はありえると思います。感情や創造性がなくても、理論と理知によって宇宙の相当の理解と応用に達することは可能かもしれません。

地球支配の上層部があるかどうかはわかりませんが、もしあるとすれば、今の地球が表現しているものとの同一性があるはずです。

地球や人類の現在の状況を見れば、それを支配している宇宙人は、感情活動は少なく、創造性も弱い傾向があるのではないでしょうか。

宇宙人的に冷たい宇宙人のイメージ。だから地球もそうなっています。

ただ、頭が良いので、人を支配するノウハウには長けているはず。強権をもって支配するようなことはせず、不安と恐怖によって人類を思考停止にさせ、意識が創造に直結させないようにして地球を運営しているのでしょう。

そう考えると、お金などの存在も、通貨発行のインチキによって一人だけ儲ける、、、ということが目的ではなく、人を支配する方法として編み出されたと考える方が自然です。

意識が創造のすべてであることを、さすがに宇宙人は知っているはずですので、人類自らが自らを縛って自ら奴隷となる、、、そういう方法による支配と思われ、それは相当成功していると思います。

なぜそのようなことをするのか、、、というと、地球の資源が欲しい、、というようなことを言う人がいますが、そんなことではないと思います。

ゴールドなどは元素転換によっていくらでも作れるのではないかと思われる。いずれそうした時代が来るでしょう。

人類支配の目的は物などではないのです。

宇宙における最高の意識は、たった一つの命を共有している意識です。これよりも強い意識圧はありません。

それは分類することをメインとする知的方向からでは限界があり、融和による一体意識でないと到達しない意識圧です。

なので、意識が高い宇宙人には低い意識の宇宙人を支配する考えはありません。

宇宙人に人間が支配されているとしたら、それは知的、テクニックとしての支配であり、人類意識の変容によってすぐにも解かれる構造をしていると思います。

支配欲求は神経症的欲求であり、自身の魂のこころもとなさへの不安が、他の魂を幽界へ誘うことで、その上下関係を永遠化したいからです。

情的、意識的に未熟で且つ知的優位に立つ宇宙人が、人間を支配しようとする、こうした構造がきっとあるのだと思います。

彼らの支配は、人間が自分から壁を作り、限界を感じ、自ら奴隷になってくれることによってしか維持できないのです。

物に真実の姿があるのではなく、意識が真実であることを、支配的宇宙人ももちろん知っています。なので、彼らの目的は、金や物的支配とは違います。

コンプレックスと恐怖から来るところの、魂の永遠性への不確かさを、人間を支配し、その魂と意識を心もとないものとさせることによって、自身の安定を得ようとしているのです。

そう考えると、人間の歴史で、不幸がなぜ多いのか、、、うまくいきかけるとなぜか邪魔が入って争いになっていくのか、、、、など、真の理由がわかってきます。

要するに、支配者が求めるものは、人類の不幸なのです。不幸と悲しみが多ければ多いほど、彼らは安心するのです。

それしかエネルギー源がないからです。それも、人間が自らそうなるように仕向けることで達成しています。

善良な日本人を支配するのは、悪質な一部の日本人であり、善良なロシア人を支配するのは、一部の悪質なロシア人であり、アメリカでも、イギリスでも、イスラエルでも、それはどの国でも同様です。

捕虜収容所の中でも、勝利者側の意向を組んだ仲間が、リーダーとなって捕虜を支配するのです。

そうすれば道理は通らず、通常の意識が通らなくなる道ができて、支配が簡単になるからです。

意識がすべてを生みだすことを、彼らは知っているのです。そして人間の意識を動物や下等の状態に保つことが何より彼らには重要なこととなります。

その方法が、宣伝であり、予定されて実行されるショッキングな出来事であり、戦争などの演出された恐怖です。そしてそのベースとしてお金への一極集中意識の継続。

まあ、本当に良くできていますが、それらは幻ですから、私たちの意識が変容していくことで、あっという間に消える運命を持ちます。

彼らが支配しているのではなく、私たちは自身を自縛しているのです。

気づいた意識に抵抗できるものなどないからです。宇宙人はとくにそのことを知っています。

時代がダマシ、インチキ、嘘に傾くのも、愚かな意識のままでいてほしい、、、という上の願いが、でたらめなものを数多く作っているわけです。

お金のインチキは際たるもので、あれはやはり紙切れなのです。こちらが勝手に価値があると思っているから、その幻想によって存在しているだけ。

みんなで、あれはインチキだった、、、となれば、一夜にしてすべてが変わってしまう。

お金が紙切れに化けても、まだ残るもの、、、それが価値あるものですが、すべての物が消えても、意識だけは消えませんので、これが実態です。

実態で生きる時代がいずれ訪れるのですが、その際に、情や複雑な感情を持つ人間の特性は、素晴らしい意識の乗りものとなって、人間でしかできない、素晴らしい作用を、宇宙に向かって投げかけることになります。

私は人間は非常に優れた宇宙人だと思っています。優れたとは、知的な意味ではなく、総合的で立体的な一体感に行き着きやすい、とてもかわいげのある存在ということです。

このように後の者が先になり、先の者が後になるであろう、というイエスの言葉には、人間の宇宙における可能性が含まれている気がしてなりません。

話しは、宇宙人の存在を借りて話してきましたが、いるいないではなく、対比の比喩としても、同様に考えることはできますので、宇宙人に抵抗がある方は、比喩としてお読みいただけたらありがたいです。

宇宙人は自身の知的怜悧さでもよく、また人類は自身の人の良さや、善意として考えてくださっても同じです。

今週の土日のMI池田山ハウスは、土日とも12時から18時までオープンしています。26日の土曜は、午後2時から「自身を表す声」にアプローチいたします。

あなたという存在を声で表現してみてください。

日曜日も無料セミナーを行います。やはり午後2時からです。内容は「自分を既定していたものから放す」と題してお話ししましょう。何屋、、、をやめると、、、

人は、友人の前で、、、会社の同僚の前で、、、親の前で、、、好きな異性の前で、、、もしかしたら、何屋になっているかも。

何屋があれば安心かもしれませんが、いつまで続けるわけにも行きません。ポーズをやめると何が出てくるか、、、そんな話しをする予定です。
 


お彼岸 2015年09月23日(WED)

  色々な人生観があると思いますが、どんな人生観を持つかによって、苦しい人生とも意味深い人生とも。

人は何を行ったかによって決まる面もありますが、何をどのように考え捉えてきたかが、実はより決定的なのです。

何をどのように考え、捉えてきたかで、結局は行動が決まってしまうからです。

考えてもない行動を私たちは決して起こしません。行きたくない場所に、何があっても絶対に行かないと思ったら、義務でない限り、そこには行かないものです。

私たちは自分の考えや感じ方の通りに大体は生きているからです。その際に重要なのは、日頃何を、どのように考え捉えているか、、、ということになります。

そこに大きな分け方があります。本日はお彼岸。彼岸とは、向こう岸、、、すなわちあちらの世と現世とが接近する日。

冬至、夏至、春分、秋分、、、年にそうした日が四回あり、人は昔から特別な日としてお祝いしてきました。
そのうち、春分と秋分が彼岸となります。

彼岸とは、悲願でもあると思います。人間の悲願として人生の意味を知ることは大きいはずです。

生きている人と死んでいる人との境が彼岸であるとするなら、お彼岸の日はその垣根が無くなる日でもあり、現世に生きている人は、死んでいる人と、常に一体を今なを生きている、、

そう思う人生観と、死んだら仕舞い、、、と思う人生観では大きな違いがあります。

死んでいる人とどこかで一緒に生きている、、、という考えがなければ、墓参りの意味も違ってくることでしょう。

死んだ人について考える人がいなくなれば、自然と無縁仏が多くなります。

実際、東京の古くからあるお墓には、参る人とていない無縁仏が多くなっているようです。

死んでいる人と共に現世を生きているという考えにおいても、墓の中に死んだ人が今もいるわけではないのでしょうが、思いでの記念碑としての墓としての大きさは、変わらずにあると思います。

墓を忘れるということは、私たちが死んでいる人達の総勢の思いの先端におり、自分を見守っている幾多の先人とのコミュニケーションを忘れることでもあります。

多くの宗教団体が、墓や先祖を重視するのも、そうした理由があってのことなのかもしれません。

宗教は別にしても、意識が普遍で生き通しなら、死んだ人は死んでなく、今も意識体として生き続けていることになります。

ご先祖様たちの個の意識は、さらに大きなものと一体になったにせよ、意識体としては決して死んでいません。

そう考える人生と、この世限り、、死んだらお仕舞い、、、という人生とでは、違いが出てくる、、、ということです。

原発の問題も戦争の問題も、原点にこうした考えの違いがあるのかもしれません。

民族はおおむね、自然な死生観をもっています。どの民族も大体は先祖を大切にし、今なをそれらの魂は生きていると考えます。これはどの民族にも共通しています。

しかし、近代国家という便宜によって作られた時代は、私たちの時代も含めて、死んだら仕舞い、、、の考えを当たり前のように印象付け、魂を奪うことで成立している業がそこにあります。

近代国家の成り立ちの根本には、人の魂を奪いとることで重要なものを忘れさせ、支配しやすい人間を作り上げる政策の基本があったと思います。

もちろん、すぐに死生観を変えることもできないでしょうから、時間をかけて徐々に真実のコピー化を行い、あたかもコピーが本物であるかのように思わせる文明が行きわたったのです。

どこに行っても同じ景色、、同じやり方、、、同じ物、、同じ人生、、、、

魂の感動がなくなった、それに代わるコピーとしての感動は、スポーツでの感動や夢の実現、、という代案に切り替わっていきました。

ことに夢の実現という切り札は効果的で、形の実現だけの貧しさと、今の充実を目的にさせない生き方を当たり前のようにしてくれました。

少年にとって野球選手になる夢はもちろん大切ですが、一人の夢の実現の下に、一体何人の少年たちの挫折があるのでしょう。

そんなことではなく、野球に触れた人すべてが幸福であると思う、そういうシステムにしていく方がベターです。

強い者、、、優れた者、、、持っている者、、、有名な者、、、それらへの価値が大きくなりすぎており、人間としての共通の喜びや当たり前のやさしさなどが、犠牲にされています。

そうした諸々の現象の原因の大本に、死んだらお仕舞いか、彼岸への思いがあるか、、、があるように感じられるのです。

私たちは大昔からの血縁などによって、今、先端の命を生きています。すべての先祖の思いの先端にいる、あらゆる先祖の思いを集約したところの、死者総勢からの期待を一身に集める存在なのです。

先祖の中には、金持ちも有名だった人もおそらくいたと思います。何百代もさかのぼれば、先祖の数は半端ではありませんから、きっとそういう人もいたはずです。

権力を持っていた人もいたことでしょう。となれば、総勢の思いの中に、そんな具体的な金持ちになれとか、有名になれというような期待が果たしてあるでしょうか。

私は無いと思うのです。そんなことではなく、お前には、お前にしか表現できないものがある、、、それを惜しみなく使え、、楽しめ、、、という以外になくなると思います。

金持ちの先祖も、有名だった先祖も、すでに死んだのです。死んだ後にそれが誇りとして残っているとは思えません。

しかし、遺伝子の中に確実に、喜んだ人生、、、ご先祖らしく生きた人生は、特別なものとして記憶されていると思います。

そうした深く魂に残る体験や記憶しか、遺伝子を書き換えることなどできないと思うからです。

遺伝子の残る記憶とは、すなわち、自己実現した喜びの記憶以外にないということです。

全ご先祖の期待を一身に受けてこの世を生きている私たち、、、そのあと押しへの思いは、お前はお前らしく生きなさい、、、ということに他ならない。

ホロスコープにはその人の本当にいろいろな面があらわれ、同じ人は一人としていません。

しかし、そのホロスコープを読み解いても、当たっていない人がいる、、、それはホロスコープに表されている表現への期待に関心を持たず、どこかの人間や社会が考えたルール以外に関心が無い人に多いのです。

要するに自分を生きてない、、、金がないと将来の老後が不安とか、一応の大学を出ておかないととか、、、形にこだわっている。

星が期待しているもの、、、先祖が期待しているもの、、、それは形では決してないのです。

表現です。新しい表現なのです。その人にしかできない、、、一言でいえば、その人の、その人の人生の芸術化以外にないのです。死者の世界からの要望は、個性的に生きなさい、、ということです。

それによって、死者の世界が沸き立つのです。喜びに沸き立つのです。するとあちらの世で起きたことは必ずこちらの世でも起こるので、あなたの元に大きな喜びが戻ってくる。

私たちは生きている人間だけを怖がり、それに合わせようとして、四苦八苦している。そのうち、段々と回りのことばかり考えて自分を持とうとしないから、魅力が無くなっていく。

金を得て魅力を失う、、権力を得て魅力を失う、、、人望を得て家族からは嫌われる、、、良い人だと言われて本当は悪い人になっていく、、、

そうしたことが起きてしまうのです。先頭に立って、自分を表現する、、、それによって死者が沸き立つ、、、その応援なくして、人は幸福になどなれない、、、ということを、どんな民族も本当は知っていたのです。

そしてそうした事実を本当は知ったもののそれができない一部の人たちが、人類の魂を人質にとって近代化が進んできた、、、そう考えると、歴史がわかりやすくなります。

大不況が起こる、、、戦争が起こる、、、原発が爆発する、、、そうした不幸がなぜ起こるかの根本の原因がわかってきます。

それらに対抗するのは、個の芸術化以外にないのです。

芸術化というと大げさですが、要はご先祖集団が喜ぶ生き方をするかどうか、、、、形ではないのです。あなたにしかない個性が、今の自分の顔、体と同様に形の上でもある。なのに、私たちは、さらに個性化がある心や生き方にそれを応用しない。

顔や体が違う、、、それ以上違う魂や心をベースに人生を生きようとしない。

どんな不幸も、どんな限界も、どんなショックも、すべて自分の個性化の、芸術化の味付けになるというのに、形にこだわる私たちは、金がない、、人気がない、、家柄が悪い、、というような、形に限界を感じ、形だけにこだわる人生に変えてしまう。不幸など本当は存在しないのです。

あなたにあるあらゆる不幸的な要素、、、それさえなくなれば幸福になれる、、、という迷信と誤解を今すぐ捨て、それらの一見不幸に見える事柄は、味わいとなる個性化に欠かせない、、、という観点から自分を見れば、誰もが、実は芸術家であり、人生の目的そのものが、自身と自身の人生の芸術化にある、、、となることでしょう。

本日の彼岸、、、彼岸にこそ、あちらの世とこちらの自分との接点において、自身の存在のありようを、芸術化を誓うことで、喜びの日にしたいと思います。
 


土星いて座に 2015年09月18日(FRI)

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本日のお昼頃、土星はさそり座を抜けていて座に入ります。これでもうさそり座に戻ることはなく、今後二年以上、土星はいて座を運行することになるわけです。

いったんさそり座に戻った時期をやけに長く感じましたが、本日をもってさそり座土星は終了。さそり座やおうし座の第三デークの人はかなりきつかったと思います。

今度はいて座とふたご座の人に試練が訪れるわけですが、強行採決される安保法案は、さそり座といて座をまたがった形で決められることになるわけで、先行きの不安定さを感じます。

安保法案決定を急ぐにはきっと理由があるはずで、軍事面で予定されていた突発的事件が近いのかもしれません。

予定されている突発事件というのもおかしな表現ですが。何事も偶然には起こらないのが政治の世界です。

しかしいて座に土星が入ってくると、国際情勢は緊迫すると思います。おとめ座の木星とも90度となるわけで、この秋には大きな変化があるかもしれません。

実際にはすでに行き詰っているからきな臭い雰囲気が出てくるわけで、長く続いた安定が一時的に脅かされる状態が日本にも訪れるのかもしれませんね。

何があっても、結局は私たちが作りだしたものなのです。現実は意識によって作られるのですから、私たちが常にそれを作っているのです。

宇宙の果てはどこか、、、という物理的な問題がよく関心の的になりますが、宇宙は意識によって常に作られているとなれば、限界もへったくれもありません。

現実もそうなのだと思います。常に自分の意識から現実が生み出されていく、、、その現場を見た、、、という方からメールをいただいたこともありますが、確かにそういうものなのでしょう。

詳しいことは私にはわかりませんが、きっとそうなのだと思います。宇宙も常に作られているのです。果てがどこか、、、というようなものとは違うのです。

大本は意識です。

微細なものにしか本当の影響力はないのです。微細なものにしか現実を動かう力はないのです。

みなさなんは体のどこかに、痛い、、、張る、、、つらい、、、という個所はあるでしょうか。

強烈なツッパリや痛み、、慢性的な痛み、、、そんじょそこらの方法で治るわけがないと大方は思います。

しかし、これ以上ソフトなタッチはない、、というくらいにやさしく、触れるか触れないかの強さで、患部をさわってみてください。

そっと、そっと、、、おなかが痛い時も頭が痛い時も、そっと、そっと、そっとタッチしているかしていないかの感触で、そっとふれてみると、何が起こるか、、、

大体の痛みは治まりますし、ほとんど治ります。まさか、、、そんな馬鹿な、、、という思いの人は、その思念ゆえにそうしたタッチができないのです。パワー信仰者です。

物理的で現実的なものへの信奉が強いと、ソフトタッチができなくなる、、、意識圧への信頼があると、触るか触らないかの世界がわかってくる。

微細なものにしか本当の力はないのです。手先の微細な動き、タッチに大きな可能性があります。チューナー振動がいろいろな奇跡的なことを起こすのも、微細だからです。

戦車や大砲や核に力があると思うのはパワー信仰が生み出した誤解です。パワー信仰の大本には、死んだら終わり、、の誤解があるからです。

意識からしかエネルギーがわかないということなら、物体は結果であり、現実ではないのです。

意識が現実でありリアルであれば、人間の意識は不変で死ぬことはありません。

無からしか本当の力はやってこない。なので、微細なものに頼るのがいいのです。

微細なものを動かす、、、意識圧が最高のものですが、この世の現物を動かすことで、私たちは作用を行えます。

この世の現物をどのように動かしてもそれ自体には力も意味もありませんが、作用としての意味があります。作用があると、宇宙の無が反応するのです。

それが本当の力です。その際に、原爆投下の作用がもたらす反作用と微細な動きや働きがもたらす反作用には逆転が起こるのです。

この世のもっとも小さな者にしたことは、もっとも大きいのである、、、というイエスの言葉はその通りなのだと思います。

原爆と正反対の小さな、微細な意識が強いものをもたらすのです。強い反作用をもってきます。

小さな微細なものを信じるのは、大きな無を知っているからです。微細なものを知らない人は、パワーしか信頼せずに、平気で愛や友情や思いを裏切ります。

そして原爆的なるもので、周囲を破壊していきます。

微細なものに本当の力があることを知らないからです。

これは口先の話しではなく、微細な作用を織りなすことで、文化的に、芸術的に、幸福に人は生きられると思います。

痛みもそれで治ります。この世の仕組みは逆説になっているのです。

微細な刺激による大きな創造の時代を開かなくてはもう危険なのです。

食べ物も、衣服も、住居も、町も暮らしも、、、微細意識による再構築で、私たちは危機の時代を乗り越えることができるのです。
 


選民意識の終わる時代 2015年09月15日(TUE)

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選民意識はどの国、どの民にでも大体はある。ユダヤの民のみならず、日本にも中国にも、また白人という選民意識にも非常に強いものがある。

この数百年は白人文明が世界を席巻した時代だから、白人の意識に優越したものを感じることは確かに多い。

池田山ヒーラーファッションを着て街を歩くと、色々な反応に出会う。おおむね、おやっ! という好意的な反応をみせてくれるが、白人の中に時どき、敵意むき出しに反応してくる人がいる。

最初はこちらの誤解かとも思ったが、何度も出合ううちにそうでもないとわかった。

もちろん、敵意など見せない白人が多いのだが、中に敵意を見せる人がいるということだ。白人以外の外国人からは感じたことがないので、白人特有の反応に感じられた。

おそらく、白人文明、文化が世界一であり、それに従わない表現には違和感を覚えるのだと思う。

日本人の選民意識も、白人以上かもしれない。日本は特別な国である、、、的な発想。どの国だって特別なのだから、日本に限ったことではない。

私自身、日本語の特殊性についてことあるごとに語ったりしているので、そうした誤解を生むかもしれないと思うと、責任を感じる。

中華は中国が中心という発想であり、韓国でも文明のほとんどは韓国から生まれた、、、的な発想を語る人も多い。アフリカ大陸にも同様の発想があると思うし、ヨーロッパにももちろんある。

どの国もどの民族も、自分が一番、、、という気持ちになって当然なのかもしれないが、これだけ世界が狭くなり、関係性が大きくなったのだから、どの国が一番ではすまない時代になった。

もっともらしく遺伝子の問題として優越を語る人もいたりするが、遺伝子に優劣などない。個性があるだけ。

ここに来て、私たちはどの選民意識をも捨てなくてはいけない時代が到来したのだと思う。

それぞれの個性をもちより、それぞれの特性を出し合って、ひとつの人類、地球を運営していく以外に未来はない。

その際に自分が一番優れていると思う思考ほど間違いを生み、問題になるものはない。

日本の官僚などは、自分らがもっとも優秀で、一般庶民は自分らの考えたレールに乗っておとなしくしていてほしいと、本気で考えている節がある。

実際、日本の官僚は確かに優秀だと思うが、それは成績優秀であり、実務面が優秀という一面の優秀さでしかない。

人間にはもっともっと、色々な才能があり、人を笑わせるのがうまい人もいれば、勉強ができる人もいれば、優しい人もいる。

どれも必要な才能であって、どれがもっとも優秀というのは、あまりに大人げない危険な発想だ。そうした一部の才能だけで収まるような時代ではなくなっている。

どの国の防衛と戦力がもっとも大きいとか、戦うとどの国が強いかなどは、結局は間違った選民意識に根差して発展した発想だろう。

確かにまだ防衛が必要な時代なのかもしれないが、そのウエイトはいくらでも小さくできるはずだ。それには、優秀な人がリードする今のやり方では難しい。

どの才能も同じように必要であるという立場に立つと、百花繚乱の国のイメージがでてくるし、百花繚乱の人々の暮らしのイメージがでてくる。

知的優秀=武器と戦争   この方程式でむしろ人類と地球は苦しめられて来たのだ。選民意識が争いを生むわけで、勉強に異様に力を入れれば、必ずと言っていいくらい官僚的な発想が重視される時代になっていく。

日本の中にも、我こそ、、、という貴族意識を持つ人達がけっこういる。大企業であったり、昔からある有力企業であったり、元華族である場合もあるだろう。

そうしたものが力を持ち、また必要な流れも確かにあったのかもしれないが、今、もう一度、素直に裸の気持ちで考えてみると、本当にそれは必要な意識だろうか。

昨日からユダヤの新年が始まった。特別な新年である。ヨベルの年の始まり。

今のイスラエルでどうなっているかは知らないけど、ヨベルの年には、奴隷は解放され、借金はなくなり、あらゆる負債も、罪も許される。

御破算の年である。この年に、あらゆる選民意識をご破算にできたらどんなに素晴らしいだろう。

勉強ができる人は勉強ができることで褒められる、、、足が速い人は足が速いことで褒められる、、、絵がうまい人は絵がうまいということで褒められる、、、

バカな人は、ずるくない個性を褒められる、、、優しい人はとくに褒められもしないかもしれないが、人が寄ってくる。

お金持ちは、お金の面のみでいい思いができるが、だからと言って何ということはない、ただそれだけ。

お金の無い人は、お金がないことのみで困ったりするが、ただそれだけ。

どうっていうことはない。

あらゆる選民意識が終わると、この世は楽になっていく。当たり前のことが当たり前のようになっていき、これまでどんなに無理して生きてきたのか、、、むしろ選民意識に凝り固まっていた人が気づくかもしれない。

まだこの世の中で、階級があり、上下があり、パワハラもセクハラもまかり通っている。どれも小さな選民意識なのだ。

つまらぬものを捨てる、、、そして持っているものを持ち寄る、、、すると誰にでも意味と存在の価値が出てくる。

ヨベルの年に習って、私たちも積もり積もった特別な意識を捨てれば、きっと楽しくなってくる。
 


嬉しい予定 2015年09月10日(THU)

  長年、コツコツとやっていれば、たまにはいいことがあるものです。

来たる、10月4日の日曜日。中山競馬場においてG1スプリンターズステークスが秋のG1初戦を飾ります。

当日午後2時半から中継されるのが、日曜競馬ニッポン、という競馬番組。ニッポン放送のラジオ番組ですよ。

そこに愛先生がゲスト出演することになりました。ラジオ、新聞、テレビにそれこそ何回も出たことのある私ですが、こんなうれしいことはない。

G1レース当日のゲストですよ。外務大臣より偉いんじゃないかな、、、

内容は私がスプリンターズステークスを予想し、その内容の馬券5000円分を局が購入。もし的中したらその的中分の配当を申し込んであるリスナーで分配する、、、という内容なんです。

責任重大。ここは何としても当てなくちゃ。

皆さんもぜひ、10月4日の日曜は、日曜競馬ニッポンを聞いてください。何せ、G1ですよ。総理大臣より偉いんじゃないかな、、、

話しは変わりまして、なぜかこのところ、聖書の中のイエスの言葉を思い出すことが多くなっています。

教会の教理とイエスの言葉の違いに違和感を覚えたことが昔からあって、自分勝手にイエスの言葉を読んできたのですが、ドストエフスキーも獄中で聖書を精読したらしいのです。

そして、イエスほど暖かで素晴らしい人間はいない、、、というような感想を語っていたと思う。

私も昔からそう思っていて、結局、今の時代というか、この二千年の間、キリスト教は広く世界に広まったものの、本当のところのイエスはむしろ隠されてきている、、、、ことを実感しています。

素晴らしいものを乗っ取り、その名を借りて悪事を働く、、、、そうした構造がこの二千年間の隠されたスタイルだったと思うのです。

美辞麗句、言葉だけ、スローガン、イメージ、、にだまされてきた二千年。

イエスをもう一度復活させることはとても重要な気がします。そんなこと私ひとりにできるわけはないのだけど、それぞれのイエスがいてもいいと思うのです。

私が知ったイエス、、、私が感じたイエスを、聖書のイエスの言葉から探っていく試みを機会があるごとにやってみたいと思います。

時代は何を壊そうとしてきたのか、、、、それは、魂の喜びであり、生きがいであり、感動だった気がします。

魂の感動をスポーツの感動に置き換え、魂の喜びを怠惰な喜びに格下げさせ、愛を低俗な欲求に変えさせて、、、、時代を支配する方法。それがピークに達した印象があります。

そのためには、イエスを奪う必要があったのでしょう。東京カテドラル教会ができた時、私はこれが教会なのか、、、と内心で驚いた記憶があります。

まるで刑務所の中のように思えたからです。古い木造の教会は壊され、近代的な鉄筋の教会になっていった、、、、すべての魂のふるさとを違った感動のないものに置き換える作業が、おそらく意図的に行われていたように感じられます。

その根本は、イエスの抹殺だったという直観。大したことは言えないとは思いますが、私が感じたイエスを語りたい、、、、そんな思いがふっとわいてきました。

イエスの語った内容はほとんどが逆説です。この世の苦しみは反対の喜び、、、この世の喜びは何か大事なものを捨てているという構造。

悲しんでいるものは幸いである、、、彼らはなぐさめられるであろう、、、

山上の垂訓の一部ですが、イエスの言葉にあふれるやさしさ、愛、逆説の人生観、、、それは本当に素晴らしい人情であり、真理だと思われます。

人間イエスに迫りたい、、、なんだか不思議な思いがわいてきましたので、いつとは言わず、ことあるごとに語らせていただくことにいたします。

どうかよろしくおねがいいたします。イエス?  なんだかつまらない、、、、とお思いの方も多いと思いますが、ちゃんと話せば本当に面白いんです。

あくまで私のイエス像ですが、読んでいただけたら幸いです。
 



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