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| ■ 楽しみと日々 New! |
2008年08月27日(WED) |
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確かプルーストの本の題名にあったと思う。プルーストがまだ若い頃に書いたものだったと思う。もう何十年も読んでないから忘れたが、プルーストやサガンは夏の終わりになると決まって思い出す。まるで少女趣味だが20代半ばから常にそうだった。物書きになりたかった私は、夏の終わりになるとそうした思いが強くなり、書けもしないのに、原稿用紙を持ってよく上野公園に行き、美術館のロビーや都美術館の食堂でどうでもよいような文章を書いていた。どうでもよいような文は今でも同じだが、スタイルから入ることで、本当に文章を書いて生計をたてることになったのだから不思議である。上野公園でのパフォーマンスが今の道につなげたのかもしれない。フリをするというのは、イメージの確定であり、影響力を持つのだ。お金がなくても金持ちのフリをすることがいい、とどこかの本で読んだが、なんだか滑稽にも思えるものの、本気でその気になれば、やはりイメージは確定されるのかもしれない。しかしだ、そうしたことをある種の不安や恐れをともないつつ行っても、私はかえって遠ざかると思う。そう、フリは恐れのイメージを確定させるかもしれないからだ。ではどうすれば、そうしたイメージトレーニングが可能になるかだが、遊びでやるのがもっとも危険がなくてしかも効果がある。子供は遊びが仕事というが、これは本当で、遊びながら色々なイメージを確定保持していく。遊びの足りない子供で勉強ばかりやらせる親は本当にバカだと思う。バカというか、損をしている。子供に限ったことではない。イメージの遊びほど面白いものはないのではないか。趣味で寸劇団のようなものを作り、友人同士で、よっ、今度は金持ちやろうか、、、と、寸劇のシナリオを書き、すぐに行う、、、その気になればこれでひとつのイメージが確定。劇団は流行らなくても、イメージを得たのだからいづれ実現する。趣味の演劇団で目的達成をはかるなんて、面白すぎると思う。劇と同じ運命をたどった役者は実は非常に多い。イメージの固定が行われたためだ。決して偶然ではない。私は長い文章を暗記する趣味があったが、源氏物語の桐壺を全部暗記したが、途中で藤壺が死に、帝がいたく悲しむ場面がふっと心の奥に入った気がした。すると私の母が急逝した。イメージの固定は恐ろしいのだ。その後私は暗記するものを選んで、次には平家物語の、清盛が出世していく場面だけを暗記した。縁起をかついだのだ。清盛のようにはもちろん行かなかったが、それでも独立して順調に伸びていったのだから、それはイメージを固定できたお陰だったと思う。この際、期待もダメ、希望もいらない、もちろん、不安もダメ。期待や希望を抱かなければ、その分の不安もない。必死でこうならなくては、、、と思いつつイメージを固定しようとしても、その反動として、そうならなかったら、、、の不安が人には出てくる。不安が出ないのは、遊びの場のみである。だから、イメージの固定は遊びにするのがよい。その際、遊び心があるのとないのとでは差が出る。結局、人間を2タイプに分けるのは、常日頃不安や恐怖をバネに生きている人と、楽しみを糧にして生きている人のふたつである。前向きなイメージの固定に成功しやすいのは当然後者だが、その理由は遊び心があるためである。今の世に足りないものは遊びだ。全体が強制収容所のようになりつつあるので、とくに遊びが少なくなっている。遊びで前向きなイメージの固定を意識的にしてみると、少数投資での最大インカムが得られる時代になってもいる。それだけやる人が少ないのだから。バカな母親が怒りながら子供に英語を習わせ、勉強させ、子供の成功の種を奪っていく。無残だがこの傾向は続くのだろう。遊びがあれば、きっと不安や恐怖をバネにした人にも違った面が開けてくる。私もどちらかというと遊びが少ないタイプだから、もっと遊ばねば。それには遊び仲間が必要になる。恋人がいる人は恋人をイメージ固定の遊び友達にするとお互いの運が伸びると思う。夫婦でそれをやるのはもっとよいが、大体は、現実的な妻の前で夫のイメージ遊びは中断させられる。せめてそのまま放っておけば、ご主人はさらに成功するというのに。 |
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| ■ 夏の思索ー気候変化の怪 |
2008年08月24日(SUN) |
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なんだこの急な涼しさは。ジュセリーノ氏の予知では今年の夏は猛暑で45度以上に気温が上がるはずだった。確かに7月から8月の中旬にかけて、そのムードにあった。あのまま進むと軽く東京でも40度を超えていたかもしれない。しかし8月の12日ごろに妙な話を聞いた。暑さはもうすぐなくなる、、、、と。まだ猛暑だったし、予知のこともあったので、まさかと思ったが、本当にしばらくしてから涼しくなった。その話というのは、今年の夏は日本は電子レンジ攻略によって、常識を超える猛暑にされて国民の命が狙われていたというのだ。そんなばかげたことがあるものかと思うのだが、話通りに涼しくなった。日本人焼き尽くし作戦を行っていた装置が、すべて破壊されてということだった。だから急に涼しくなるよ、、、と。同じ装置で地震も起こせるらしいから、ならば9月13日に予定されていた地震は起きないかもしれない。人為的な原因で起こる地震だとしたらそうなる。なんであれ、地震など起きてもらいたくない。誰がそういう装置を作り、また誰がそれを壊したのか、私にはまったく見当もつかないが、不思議な夏の怪だった。ジュセリーノ氏にそこらへんのいきさつを改めて伺いたいものである。9月13日の地震はどうなったのかも尋ねたい。前日の12日は前から言っているように、金星と火星がてんびん座の15度で合となる。これは重要な天の印で、私はその天体のエッセンスを取り入れて、最強と思える、ラブオイルを作るつもりだ。だが、てんびん座は恋愛や結婚の星座であると同時に、平和の星座でもある。このプラネタリパターンを使って、平和の願いも閉じ込めようと思いだした。奇跡の愛最強ラブオイルに、同時に人類愛のエッセンスと平和の願いを閉じ込めることにしたい。てんびん座は平和というか戦争と平和の星座であり、その中間点の15度に戦いの火星が、愛の金星がやってくる。戦いの星を愛の金星が癒すことは可能だ。そうした願いをこめて作ってみよう。夏の思索ということで、普段は書かないような話を進めているが、私は驚いていることがある。アセンションやフォトンベルトについて、私はニューエイジ系の人々が言っていたことにあまり関心もなく、彼らをあまり信頼していなかった。昔からニューエイジ系の人のシンのなさやご都合主義を感じていたせいだが、宇宙の波動が変化してきているのを、体感で最近感じることが多かった。理由は分からないが、私たちを取り巻いているエッセンスというか周囲の粒子が以前と異なるようなそんな印象があった。数十年前はまだ何も変化の起きようがない、非常に退屈な時のエッセンスだったのが、今ははっきりと違うことがわかる。変化が急であり、いい意味でも悪い意味でも可能性がある。変化の可能性があるというのは、リアルが近づいているということで、その重要な要素に音があると思う。音は波動なのでリアルにつながりやすい。昨晩、私は自分の癒されていない部分に対して、自分の声で自分に語りかけ、アクセスする勝手な行を行ってみた。面白いうように色色な音が出てくる。私はある程度自由に倍音を発生できるので、音がどうしても非日常の音になっていく。すると音が何かにつながり、その一体感の中で癒されていくものがわかった。変化のない固定化された現実においては、お金がいくらあるとか、家があるとか、地位が重要になるのはよくわかる。しかし、変化が急な場合、しっかりと本質につながっているかどうかが重要になる。変化が急とは、リアルが近くなっていることでもある。昔からリアルは変わらずにあるのだが、それは地球が固定化されていた時代では人にはなかなかつながりにくものだった。だkら仮想の幽界とつながりやすかった。しかし今は変化が早く、すなはちリアルが近づいてきている。それがフォトンベルトなのかアセンションなのか、私は分からないが、何かが違ってきており、心と意志をそちらに向ければ、割と容易に実態とつながりやすいありがたい状況が訪れているのではないだろうか。音のセッション、音の神業のような働きかけがとても大事なのだ。自分なりのボイスヒーリングを私は編み出したいと思うようになった。正直な音の発声とと肉体表現が必要なのだ。 |
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| ■ 真夏の思索ー冬 |
2008年08月21日(THU) |
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私は中高時代に真夏になるとよく冬の絵を描いた。理由はわからない。雪景色を描きたくなるのだ。暑いからなのかもしれないが、もう少し心理的な理由があったのだと思う。おそらく8月の始め頃に異性に対する思いが高まり、その後期待値は高まるものの、現実はそれに見あわず夏休みの終わりが近づき、段々と失意の波動が優勢になってくるあたりで冬の絵が描きたくなったような気がする。若者にとって、好きな異性がいてもそれ以上に進展しない夏は苦しいものだったのだと思う。現実の発展がない分を冬景色に置き換えることであきらめというよりも長期戦に持ち込むという合理化のつもりだったのだろう。とかく恋心はこうした矛盾と合理化での守りという構造を持っている。若い時代はとくにそうだ。人はだから恋をすると、どこかで自分にウソをつく。恋がうまく行ってないときはとくにそうだろう。夏の全盛から終わりにかけては、蝉も激しく鳴いている。蝉の鳴き声も異性を求める音なのだ。その音に知らぬ間に人もせっつかれているのかもしれない。恋の時期が終える、、、人の活動時期も盛夏が過ぎればすぐに秋が来る、、、とくに高齢者にとっての夏はひとしおの思いがあるのではないだろうか。最近の死に欲に固まったご老人には無縁かもしれないが。先日、本屋で凄い光景を見た。よたよたしたかなりのご高齢、しかもあまり健康そうに見えないお年寄りのご夫婦が2人で言い合うように、真剣に本を見ている。なんだろうと思って覗いてみると、それは株の本だった。これから株をやって一日の値上がり値下がりに一喜一憂するより、残されたときを有意義に過ごされたほうがいいのではと思った。大体、夫婦で言い合うような感じで投資してもまず失敗するだろう。夏は物事に終わりがあることを教える残酷な季節でもある。時は必ず流れ過ぎ去る。時の流れの中で人は色々なものに、色々な人に、色々な事柄に出会う。誰も時のベルトを止めるわけには行かない。過ぎ去る夏。過ぎ去るとき、、。これを永遠に繰り返して終えることのないめでたさととらえるか、悲しみととらえるかが、その人の哲学の分かれ道でもある。私は負け惜しみではなく、今、また青年時代に戻れるとしても、きっと戻らないと思う。青年時代に戻っても、その後今の自分に再び戻れるかどうかはわからないのだから、やり直す気持ちにはなれない。青年期を終え、それをきちんと過去にして眺められる今の自分は青年期よりもずっと自由なのだ。またあの苦しい若い時代には戻りたくない。若いというのはエネルギーはあるが、苦しい時代なのだ。どんなに楽しそうにしてみえても。何かを失うことで、すぐに頓挫してしまうのが若い時代の幸福。それは本当の幸福ではない。人生はそこからスタートする。占星術で言うなら、太陽期の始まりである。24歳ごろまでの金星期から、25歳から35歳ごろまでを太陽期と言い、自立とそれにともなう社会的自我、社会的立場を作らねばならない時代。甘えられていた金星期とあまりにかけ離れたスタートである。学生が文化的な楽しみを謳歌したのもつかのま、就職してからはあまりの状況の違いにショックを受けるが、まさに太陽期の始まりである。しかしこの苦しい太陽期がその後の人生を非常に大きく左右する。太陽期をごまかして生きた人はその後は不満と弁解の人生になっていく。太陽期をきちんと苦しみ、自分なりの人生のスタイルを確立した人は、一生の自分らしいベースをもてる。だからどこか安定している。青年は苦しんだほうがよいのだ。そこからしか生まれないものが人の一生を支える。夏は快楽と情熱のおしまい。蝉は何を思って鳴いているのか。人間の時間はその次に始まっていく。 |
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| ■ 真夏の思索ーUFO |
2008年08月18日(MON) |
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真夏の思索というシリーズで勝手なことを書いている。第三回目はUFO。UFOを見る人は結構見るが、見ない人は見ない。当たり前の話だが、私は立科で母船を見ている。夜だったので母船の形はわからない。けれど暗闇の中である場所から定期的に一機づつUFOが飛び出していく。ジグザグに色を変えながら飛ぶ物体はUFO以外にない。戻ってくるのもいれば出て行くのもいる。本日立科から戻ったが、今年は何も見ていない。立科では何度もUFOを見ているが、母船を見たのは一回だけだった。もっとも印象的だったのは、玉置神社で見たもの。夜中に玉置神社に着いたとき、駐車場を降りたとたんにUFOの嵐であった。途切れることなく何機も何機も飛び交っている。1時間ほど見て見飽きてからお参りに行ったが、今度は神社の中で、怪光に出会う。緑色の光が上からしかたら、横から、暗闇の神社内を飛び交っていたのだ。 あれは一体何だったのだろう。一番最初にUFOを見たのは、私が高校1年のとき。港区の三田で見た。3機が編隊を組んで飛んでいた。そのことを学校であまりに騒いでいったので、体育の時間になると誰かがあっ、UFOだ、、、と言出だして笑われた。私の友人ではUFOに頭上から尾行された人もいるが、それは恐かったと思う。夢でUFOを見る人もいる。小さなきらきら輝くUFOが手の平に停まったりして楽しく遊ぶ夢を見たことがある。きれいなUFOの夢はよい夢だと言う。真夏にはお化けの話もよいが、UFOの話も似合う。空を見る機会が多いからだろうか。心の中で見えないUFOというか私たちを見守ってくれている宇宙のなんらかの存在に対して、心を向け、エネルギーを交わしあうのは面白いと思う。きっとなんらかの手ごたえを感じる人もきっといるだろう。孤独を感じたら、宇宙に心を合わせてみる。すると私たちを見守る温かな存在を感じるときがあるかもしれない。人は決して孤独ではない、という感覚をきっと味わえる。人が孤独でないというのは、本当なのだと思う。きっとどこかで私たちは守られている。私の好きな言葉。 私は許されている。 私は守られている。 この言葉をその気になって口に出すと、本当にそうだと思えるようになる。きっと事実だからだと思う。宇宙とは上空にある宇宙というよりも、地球は宇宙に取り巻かれている。上も下も横も宇宙だ。地球も個人も今は悲惨かもしれないが、それでも愛に取り囲まれている。 |
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| ■ 真夏の思索ー幽界と神界 |
2008年08月16日(SAT) |
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幽界と神界の違いを誤解する人が多い。幽界とは色々な念を持って死んで行った人がつくった霊的世界といえばわかりやすいと思う。現代ではこの幽界の力がもの凄く強くなっている。統合失調症も私は幽界を持ち出すとその構図がよくわかると思っている。幻聴や幻視があるのが統合失調症の特徴だが、これを脳の働きの異常と考えるよりも、幽界からのコンタクトととらえると大体の出来事は理解できる。悲しい死、受け入れがたい思いを残して死んでいった人は地上に執着し、いつしか幽界を作る。小さな幽界なら作るのは意外に簡単で、50人程が集まって意識を憎しみや怒りに集中させ、適等なマントラなどを唱えさせれば、割と簡単に霊的現象を起こすことができる。そこにいる人はまるで神が降りてきたかのように感じ、宗教などが育っていく。しかし多くは疑わしい幽界とのコンタクトである場合が多い。幽界はそんなに不思議なことでもなく、道理がわかればなるほど、そうなっているのかと理解できる。とは言え、実際に幻聴や幻視があらわれたら、やはり空恐ろしい気分になるのは当然だろう。まして、彼ら、幽界からのコンタクトは、自分と同じような目にあわせ、満たされない自分のウサを晴らそうというのだから、恐ろしいことは恐ろしい。統合失調症の人の自殺は、結局、幽界からのメッセージにそそのかされ、意に反して行ってしまう。あまりに恐ろしいからでもあり、どうせ言ってもわかってもらえない孤独が背景にあるからだ。能の病気ととらえているうちは、本当の病理は理解できない。彼らは本当に卑怯な手を使って地上人をそそのかす。大体、気がよく、やさしい人がこの世のスケープゴードにされるので、統合失調症にかかる人はこの世で都合よく扱われているにもかかわらず、そのことに抗議できない。要するに孤独である。そこを彼らはついて現れる。コンタクトを始める。そして慰めたり、ウソでからかったり、時には協力者のように振舞う。目的はさんざんもてあそび、最終的に自分と同じように死んでもらうことが目的なのだ。そのためにとにかくしつこく絡む。一度道がついてしまうとそうなる。彼らに狙われる人は、心理的にこの世で行き詰っているので、そそのかしに乗りやすい。そして弱いところを突いてくる。お前の家族を自動車事故で皆殺しにしてやるぞ、、、などと脅かし、次に裸になって町を走ればそうならないけど、、、とか言う。人のよい人なら、それを実行してしまう。そして裸で走る人を見て彼らは笑う。あちらは霊的存在だから、数分先のことぐらいは見通すことがある。日ごろから、見てご覧、あの人、もうすぐ道で転ぶよ、、、などといい、時には当ててみせる。そういうことがあるので、もともと現世を信じていない孤独な人はつい彼らの声を信じてしまう。そうやって操り、段々とその人を追い詰めていくわけだ。要するに、しつこいヤクザにつかまったのと同じことhが霊的におきていることになる。そう考えると、統合失調症は非常にわかりやすく理解できる。なので治す方法は霊との道をふさぐことだが、クスリで反応を鈍らせることも有効だが、それよりも、とにかく、何を言われても何を見せられても、決してとりあわず、相手にしないことに尽きる。一度彼らの世界と道ができてしまうとその道は一生残ることは残るのだが、無視を決め込めば、道に段々と雑草が生えてくるような感じで、幻聴が聞こえはするもののよく聞き取れにくい、雑音のように聞こえてくるなど、影響が少なくなっていく。統合失調症で50代を超えると段々楽になってくることが多いのは、彼らのやり方が段々と理解でき、それだませれないように無視する態度を身につけることができるようになるからである。私は医者ではないので、こうしたことはあくまで自分の感想としてしか言えないが、現代科学では霊的な存在は無視されるし、まして幽界など持ち出せば一生出世は望めなくなるのだから、こうしたことを誰も言わないし、いいにくいのだ。 別に統合失調症に限らず、一般人も実は幽界の影響を強く受けている。悲しみ、苦しみ、マイナーなあらゆる感情は幽界からやってくると思えば間違いない。神界からくるものは、実はそうしたものと違って、ずっと慎み深い。だから、ドタバタしてない分、わかりにくいとも言える。しかしそのわかりにくい糸がわたしたちを天界とつなぐ糸なのだ。苦しさ、悲しさ、悲観、などは、時には自殺まで起こすのだから、どうしてもバタバタして存在感が強い。しかし神界からやってくるものは、デリケートで静かで見逃しやすい。臭いをかぐように理解したものは本物なのだ。苦しさが苦しみでしかないものは幽界とつながり、苦しいが苦しむほど嬉しいというものは、実は神界とつながっている。開運はまずこうして起こる。苦しいが、現実は何ひとつよくなっていないが、もう苦しくない、苦しいがどこか嬉しい、、、この感覚を忘れないことだ。そこから道が開ける。きょうは日ごろの日記と多少異なる、真夏の思索として、幽界と神界について、統合失調症の例を出して語った。果たしてちゃんと書き込めるかどうか。こうした文章はそれこそ幽界から邪魔される場合が多いので。私は名指しであいつの言うことは聞くな、、、と言われることが多いと、統合失調症の方から伺ったことがある。 |
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