愛の日記






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更新履歴
2010/08/31
百歳姫(20×5)ももとせひめ  旗揚げ

2010/08/23
これからどう生きる

2010/08/19
12月公演は万葉集

2010/08/13
終戦日

2010/08/10
立秋



百歳姫(20×5)ももとせひめ  旗揚げ 2010年08月31日(TUE)

  昨日は私とプロデューサーのH氏とで企画した百歳姫の第一回会合があった。この百歳姫とは、若い女性5人のグループで、和の魅力と力を世に示したい、、、という考えで結成された。12月10日に星と森披講学習会の公演があるが、そこでのお披露目が当初の目的。日本的なものは言語の違いが根本にあるためか、海外の文化と大きく異なる面がある。優位にたとうとする価値観に対して、和の価値観を重視する。今の日本を見て、そんなことないだろう、、、というご指摘は当然あると思うが、それでもやはり世界から人がよいと馬鹿にまでされている日本人や日本的なやり方を見ると、海外とはずいぶんと違うものを感じる。その根底には言語の違い、子音と母音と組んだ言葉、さらに母音のみの言葉を使う言語体系があるのだが、これは決して海外では認めたがらない。事実なので認める以外ないと思うのだが、白人の偏見と自分らの優位性が覆されるという不安は、日本人にはおそらく想像できないほど強い。日本の言葉だけが他の言葉と構造的に違い、それが文化のありように影響を与えるなどということは、絶対にないと考えたいのだろう。しかし言語発声の構造の違いが脳に影響を与えないわけがない。角田理論は正しいことは間違いないにも関わらず、極めて例外的な事象やとるに足らない部分をあげてその理論を封印しようとする。あからさまに反対すると、注目を浴びて、日本語言語の特殊性がばれてしまう、、、そうした恐れもあると思う。戦争で日本は負けたが、GHQは和歌をとくにかく禁止し、他の文化よりも長くそれを禁止した。和歌がなぜ禁止されるのか、、それは敵性文化という側面以上にそれ自体に大きな問題が彼らにしてみればあるからに他ならない。それは言霊学の抹殺である。彼らはそれがすべての基本原理の大本であることを実はわかっていたのだ。分析能力においては、彼らは日本人の比ではない。なぜ、日本はひとつにまとまるのか、、、なぜ日本人は無から有をつくれるのか、、その元に日本語があること、その言語の特殊性をもっとも理想的にあらわした言霊文化である和歌を禁止させることは、最重要の優先事項だったろう。その後、日本人はあっという間に列強に追いつき、明治でもそうだったが、戦後もいち早く復興し、あっという間に世界一の経済大国になってしまった。とにかく日本をひとつにまとめては勝ち目がない。日本人を分裂させなくては決して自由に扱えない、、、それが戦後からつづく日本支配のキーポイントであり、確かにそうした政策が一貫して打たれてきた。政局もすぐに分裂させられ力が出せない状態。この数年の動きだけをみていてもよくわかる。アメリカの言う分をよく聞く自民党政権だけが長持ちしただけ。アメリカのポチでいようがなんでもいいが、日本の力の元の元には日本語があるのだ。その基本は和である。東に進み、さらに東に進むと、世界のどこからでも大体は日本に行きつく。大陸から、黒潮から、日本にはたくさんの人種がやってきただろう。それらを分裂させて争そわせることなく、むしろ和してひとつの溶鉱炉に溶け込ませたのは、日本語であり、和の歌であった。すべては日本語の秘密がある。これは言い過ぎてもいいほど基本的なことで、この点からの時代づくりや文化づくりをしない限り、大きくは発展しない。日本の力はやはり和にあるのだ。そしてそれが次の時代原理となることは、順番から言って当然となる。このまま分裂をつづけていけば、もう人類も人種も地球もジエンドに行くまで行ってしまうことが分かっているからである。なんだか百歳姫の説明が変な方向へ行ってしまったが、私は日本語文化の再生の祈りとして、この百歳姫を考えた。祈りは少女に限る。キムヨナがあれだけ人気になったのかは、キムに韓国民の祈りを集約させたからである。ジャンヌダルクもそうだった。思想でも宗教でもなく、民の祈りを若い女性に託す、、、それが自然な文化の形でもある。私のようなおっさんが祈るのもいいが、絵にはなるまいし、魅力に欠ける。数十人の力士に担がれた巨大な神輿に乗った百歳姫が、美しい和の歌を歌う、、、そしてその後にスポーツでも国際試合でも始めたら、全員が興奮するに決まっている。アキバなど目じゃなくなる。それは根底にある文化力の違いだ。明治以降、150年、日本人は西洋が優れ、西洋の物まねをし、それを当り前のように感じてきた。確かにそれをうまく取り入れており、生活もかなり快適にはなってきたが、それが人生の喜びだろうか、、それが人生の目的だろうか、、、というところまで、満たすものでないことも、わかってきている。何がかっこよく見えるか、、、若者は段々とわかって来ている。海外の物まねをする自分か、自分の中から出てくるものを表現する自分の方がかっこいいか、、、
 百歳姫がうまく行くかどうかは別として、命ある和の魅力、カッコよさをこれから追求していくつもりだ。皆様も、9月20日に結成される百歳姫に、どうかご支援をお願いいたします。
 


これからどう生きる 2010年08月23日(MON)

  今、誰にも突き付けられている課題が、これだ。これからどう生きる、、、? 結婚してる人もしてない人も、正社員も非正規社員の人も、経営者もアルバイトも、金持ちも貧乏人も、同じように、これからどう生きる、、という課題が突きつけられているような気がする。手ごたえのある生き方を規模を拡大させずに自己実現的に生きている人はいち早くこうした課題から抜けていると思うが、多くの人はそうではない。安全にすがれるものはすでになく、みんなと一緒に何かをするというのもどこかまとまらない、、、以前から言ってきたが、それぞれがそれぞれの立場で一人の個にもどっていく時代になった。外部に答えはなく、自分の内にしか答えが見いだせない。しかしそれは本当はよいことだと思う。時代の流れは非常に悪い方向に流れているように見えて、実は良い方向に向かっている。おかしなものはだんだんと通用しなくなっている。それでもまだおかしな人があらゆる面で上に立ってはいるが、そのため、どこからも力が出ない。なので何をやってもうまくいかない。中国では国籍を持たない5億もいるといわれている人たちが、タダ同然で働かせられ、命の保証すらない状態に置かれている。アジアのへき地でも子供たちがただ同然で働かせられ、満足な食事も与えられてない状況もあるのではと疑われる。弱いもの、、、弱すぎるものを犠牲にし、大きな利益を上げているこうした構造が人類に悪い影響を与え、人類それ自体の質を落とし、人類自体に大きな危機をもたらそうとしている。労働力がただになった時代。それは組織的で陰湿で血も涙もないかつての奴隷制度以上の不気味さであり、巷にあふれる安価な製品の氾濫は彼らの人間性を奪ってできたものである。そんな豊かさなどいらない。子供を置き去りにして死なせた母は日本中の話題になるが、それ以上のひどいことが不思議なことに法律的に許されて実行されている。置き去りにした母は少なくとも子供を使役してもうけようなどとは思わなかったが、今の時代は子供を使ってただ労働を強要し、おそらく無数の子供らが死んでいっている。殺された子供らが作った靴をはき、服を着、家具で生活しているのが我々なのだ。これで世界がよくなるわけがないだろう。教育ができるわけがないだろう。命の大切さを語る言葉がうそっぽく聞こえる直感は、こうしたことから来ているのだろう。さあ、どうするか。何から始めるか。何よりも優先しなければならないことは何だろうか。今、殺されかかっているそうした子供たち、無国籍で使役奴隷にされている人たちを、とにかく助けることだろう。そうすると、この世の構造がだんだんと見えてくる。そうした人を助けようとすれば、それに反対する力が現れる。なんで、どうして助けちゃいけないの、、、となっていくうちにこの世がどうやって、何によって動いているかが、わかってくるだろう。そういえば、脚抜き女郎を助けようとすると、怖いお兄さん方が出てくる映画のように、今でもそうだということになる。儲けるということは、労働力をただにする、エネルギーをただにする、すなわちコストゼロに近付ければ儲かる。物質ではそれに限度があり、競合相手も同様となるが、労働力だけはタダにすれば商売は無敵である。子供が死んだってなんだってかまいやしない。すごい世の中である。ここを規制すれば、ここを本気で保護すれば、ここを罰すれば、はっきり言って世界は変わる。世界平和が難しいという言葉を信じてはいけない。何にでもツボがある。無国籍者の命、子供の命と健康を守る、、、これをやるだけで世界平和は達成される。なぜなら、今の文明は、犠牲を強い、それもあまりにひどい非人道的な犠牲を強い、その上にそうでない人が乗っかる、無常の文明だからである。これを壊さなくてはいけない。日本における派遣社員の悲劇も、その非人道性に対して、正規社員が無視し、その差別を黙っていたからに他ならない。差別を当たり前にし、その温度差、収入差によってもっていた文明。それはまともなエネルギー体とはなりえないので、いずれは全体にそうした病理は蔓延していく。初めは国民のため、低所得の人のためを優先させていた民主党ではなかったか。いつの間にか、そうではなくなっているのはどうしてか。差別容認、差別化優先に戻ろうとしてるのなら、それが上手な小泉などにやってもらえばいいだろう。あっという間に日本を差別社会にしてくれたのだから。一般の人もいま、自分はとりあえず安心だから、、、などとは考えない方がいいと思う。つい前まで、いま派遣で苦しんでいる人もそう考えていたに違いない。一流企業の部長クラスですら、やり方を間違えたら、すぐに貧困層と同様の実態にある。小金を数千万、一億程度は持っているので、まあ、大丈夫、、、と思っている小金持ちも、はたしてそうか。どうせつまらないことで金を失うに決まっている。一円でも増やしたい、、、という気持ちが地獄へその人を運んで行くかもしれない。自分は何十億以上ももっているリッチなので一生心配はない、と豪語したい金持ちも、はたしてそうだろうか。その金にはめぐりが詰まっている。無国籍で働きづめで殺されていった人の、子供たちの。何もオカルトチックに人を脅かしたいわけではないが、最後はそういう力が働くものだ。そう、今の時代の文明はあまりにめぐりを積みすぎたのだ。あまりに多い犠牲の上での繁栄でしかない。やり方を変えなくては。それには、こうした文明の犠牲に甘んじている人をまず先に解放しなければ。そこに本質があるので、きっと大反対が出るし、それによって、実は何で、この世が動いていたのか、、、ということが多くの人にわかるようになる。  


12月公演は万葉集 2010年08月19日(THU)

  今年で三回目となる星と森披講学習会公演は「万葉集」に決まった。膨大な万葉集の中から、何にどのようにフォーカスをあてるかを昨夜話し合った。答えはセクシャリティであった。恋の歌である相聞歌と死にのぞんだ歌である挽歌で行こうと。なぜそれがセクシャリティなのかだが、命そのものだからだ。万葉集は大友家持が編纂したわけだが、その後150年ほどにわたって実は和歌は歴史の中にあまり表れない。漢詩前世の時代となったのである。漢詩の影に隠れて、日本本来の和歌はあまり顧みられなくなる。大友家持が藤原勢力に追われていく中で時代も変わっていったのだろう。考えてみればそれは明治から現在も同様である。明治の初めには、日本語を廃止して英語にしたら、、、という明治の元勲まで現れたのだから、すべてが西洋重視となった。こうした傾向は先の大戦をはさんでさらに強化され、学術界ではとにかく海外の文献を探し出し、それを日本に紹介さえすれば博士号がとれるような、そんなまやかしの時代を作っていった。しかしここにきて、こうした流れに変化が出始めている。それも急速にである。はやぶさなどの帰還も、こうした流れの一環であろうが、アメリカが威信をかけて作ったスペースシャトルなどより、はやぶさは多くの人を驚かし、感動を与えた。日本的なものがまた見直されているのだ。万葉集はそうした原点にあたるもののひとつでもある。漢詩をはじめ、海外のものを広くありがたく受け入れる時代が終えると、日本では再び万葉集を評価し、そこに戻る人が現われてくる。万葉集に見られる見事な多様性の中に、命に直結する力があるのだと思う。それは万葉集冒頭の歌にも確信的に出ている。ふくしもよ、、、の歌だが相聞歌である。恋したときと死を意識した時、人は通常とは異なる深い情緒を持つに至る。それはその人が生きた証しであり、命そのもの。万葉集には命の輝きをそこら中に見つけることができる。歌とともに人が生きた時代、歌あって人は自分の人生であることを意識できる。これが日本人の原点にどうしてもあるのだ。日本の文化はこれまでにも、お茶やお華など、非常に高く海外でも評価されているが、本当はその原点に和歌がなければおかしい。和歌のないお茶やお華など、本来はありえないことであり、海外優先志向が生んだやむない形でもあったと思う。日本文化の根底にはどうしても和歌がある。昔、日本文化を集め、その神髄を伝える古今伝授があったが、古今伝授の中でとくに大切なことは、やはり和歌とその歌い方である披講についてなどであった。残念なことに、こうした本当のものはどうしても秘儀となるので、西洋優先の明治以降のこれまでの150年ではそのことが分からなくても仕方なかったのだと思う。しかし日本はどんなに海外かぶれをしても、最後には日本本来のものに戻っていく。なぜなら、そこに命の輝きがあるからだ。昨晩の会議なども、披講をした後であったので、メンバーには学習会において発せられた倍音と高周波の洗礼を浴びている。昨晩は結構長く歌ったので、全員がお風呂に入ったような軽さと、ハイな状態を作っていた。途中で倍音に合わせるようにコオロギだかカンタンが甲高く鳴き出し、披講の音に合わせて張り合っていたが、あまりにこちらの人数が多くて、対抗できぬものを感じたのか、日ごろ聞けないような叫びを発し続けていた。そんな状態での会議だったので、物事の本質がよく見える。平均年齢相当高いメンバーであるにも関わらず、万葉のフォーカスはセクシャリティの一言でまとまった。日本文化はいま、再び目覚め始めている。これまで、西洋のものに関心を寄せ過ぎていた分、心と魂の渇きを伴って、和のものが尊いものに思えてくる。某大学教授の昨晩の話しは面白かった。最近の学生は優秀な人ほど留学をしたがらない、、、15年前ではありえないことだったと。家持が藤原との確執に負けたのと同じころから、漢詩全盛となったように、明治からこれまでの150年も同様であったが、私たちの魂は恋する気持ち、ひたむきに何かを求める気持ちを、渇きのように求めだしている。もう、見せかけのものでは納得できないところに来ている。  


終戦日 2010年08月13日(FRI)

  今年もまた終戦の日がやってきます。12日は御巣鷹山の日で、15日が終戦。私の家も8月に亡くなった人がなぜか多く、母は御巣鷹山の前年の8月12日が命日。御巣鷹山は今年で二十七回忌だと思う。区切りの年である。三十三回忌まであと6年だが、あと6年あれば、世間の常識も大きく変わっていることだろう。多くの人がこれまで隠されていた事実を知ることになる。人間は事実と共に生きていくときに初めて力が出る。架空の観念や嘘や偽りと共にあるうちは、一時的にどんなに力を得てもいつかは終わりが来る。事実からしかエネルギーは生じない。近代国家の成立ごろから観念思考の力学が優位に立ってきたが、それもここら辺までだろう。あと、6年というのは結構面白い時間ではないか。2012年がクローズアップされたり、惑星直列が急に騒がれたりしているが、実は私もそうした星を見ることのプロである。星占いのプロから見て、2012年の冬至で世の中が終わる、、、といわれてもよくわからない。マヤ予言など色々と出ているが、どうも決定打には程遠いと思う。1999年の時は、世の中が終わるなどとはおもわなかったが、あの時のグランドクロスが今なを世界の姿を暗示しているのは事実で、私は1999年のグランドクロスは正しく、影響が大きかったと今でも思っている。あのとき以来、もう世界は、軍事でも金融でもオリンポス的王権でも、民意でも、すべてが4すくみ状態となって動けない、という状況は正しく、今なをそれは継続している。4すくみとは、おうし座の金融、しし座のオリンポス的王権の力、さそり座の軍事力、そしてみずがめ座の民意の力、の4つであり、それが4すくみでどれも原理として時代を単独で引っ張ることができない時代に入った。それは正しく1999年だったと思う。しかし今回の2012年にはそれほどのインパクトはない。時代が大きく変わることは確かで、あと6年もあれば今の常識は非常識となり、これまでの嘘偽りは大きくあばかれ、時代を動かす原理は急変していると思うが、なぜそれが2012年の12月なのか、私にはよくわからないし、星の上にはっきり出ている、などとは言えない。また惑星直列も星占い上ではあくまで見かけの天体状況を直列というわけだから、占星学的には今は惑星直列とは異なり、むしろ、T字形という、カーディナルサインにおける3すくみ状態がある。これを最近ではカーディナルクライマックスというが、これも巷ではさわがれているものの、どうも解釈が腑に落ちない。カーディナルでの大惑星のT字形は確かにかなりハードな星の配置であるが、世の中が終わるというようなものとは違う。これは私の解釈によれば、時代の危機をこれまで公表されてこなかった幾多の人類に寄与する発明、発見、見解、解釈などが、一部のところから解放されて生かされることで、時代が急変する意味がもっとも大きいと思う。おそらくこれから数年かけて時代はそうした方向に進むと思う。ガンの実態やその治癒方法など、おそらくこれまでの医学とはかけ離れたものだとわかるだろうし、エネルギーというものの意味や扱いに関しても、かなりこれまでの常識と異なるものが出てくるし、素晴らしい発明、発見はオンパレードとなり、人類を明るい未来に導く絵が見えてくると思う。聞くところによると中国では一割の国民が重大な危機を体や精神に抱えているという。一割とはすごい数だと思うが、公害や食害などもう放置できないレベルに達しているだろう。こうした問題を奇跡的に無害化していく技術や発明もあるだろうし、経済に関した考えや方法にも素晴らしいものが出てくると思う。通貨を時間とともに減価させることで、実はすべての人が豊かになる奇跡が起こせるのだが、さらに素晴らしいアイデアが人類に許可される可能性もあるだろう。今、人類が抱えている幾多の問題は深刻ではあるが、それを無害化し、むしろ問題を可能性に変えていってしまう発明、アイデア、発想がこれから出てきて時代も地球も変わっていく。あと6年になぜかこだわるが、そのくらいあれば、これからの人類の方向性がはっきり出てくる、、、ということである。陰謀もあるだろうし、人口削減も本気かもしれないが、大きな時代の流れに人間の細工は勝てない。天の時というものは確かにあると思う。また、本当の意味での一部の人間の細工による支配と、天の時が争うのはまだ100年近く先のことだと私は自分の占星学的見地からは思っている。あと90年ごろ行った2100年ごろに、おそらく、原理的な勢力と多数の生き方やありかたを認める力とがぶつかるのではないだろうか。そこが本当の危機になるのかもしれないが、地球はこれからはユートピアに進まざるを得ない、というのが私の考えだ。危ない武器をあまりに急に振り回しすぎたので、ここは一度納めなくてはならない力学が働くだろう。地球も人類もこれらはよくならない限り、終わってしまうから、よくなる。甘いかしら。  


立秋 2010年08月10日(TUE)

  すでに立秋を過ぎ、暦の上では秋。この感覚は山の中にいるとなんだか実感できる。山に限らず、ねぶた祭りなどを終えれば、東北の夏もおしまい、、、短い夏に北の人々の命が燃えることになる。夏の終わり、祭り、秋の気配、、8月の半ばを過ぎると、私はいつも、人生とは、時の流れとは、、、と、中学生のころから感じるものが多かった。いつのころからか、夏を待ちながら日々を送る自分を発見したことがある。そして夏が来てしまうと、、盛夏を過ぎたころはとくにもの悲しくなる。冥王星がMCにあって、ちょうど8月の半ばを過ぎると太陽が通過していくためでもあるが、夏の祭りには、命の輝きが次の世代に引き継がれていき、あちらの世界がこちらに迫ってくる、お盆の実感が確かにあると思う。この時期、人は、自分の一生が自分のものだけでなく、代々受け継がれ、そして全体の命の中ですべての人が生きているという感覚、感性をどこかに忍ばせるように感じる。盛夏はある意味非常に残酷で特別な季節である。この時期、人は文化に目覚める。これから訪れる秋、冬に向かい、命の輝きを抑え込む中にあって、代々受け継がれるべき人の営みが生み出した文化に関心が行く。文化祭が秋に行われるのは自然なことに感じる。春から夏には人は一人で生きていくのがよく、盛夏を過ぎたときからその頂点を実感し、人は一人では生きていけないことを知って何か、共通の物事に関心を持つ。そうした自然な心の動きが美しく見える時期がこれからやってくる。これは人生の長いスパンでも同様で、春と夏に当たる人生の前半は、地位を求め、自分を押し出し、金を得たいと思い、競争の中に自分を置いても、おかしなことだとは思わない。かえって自然なことだと思う。しかし、人生の折り返しに至り、そうした態度が相変わらず変わらない、、、ということではなんだかさびしい。変な老人が多くなった印象があるが、老人になっても損得と自分のことしか考えられない。もったいない話しである。大きな命の予感とそこに所属する感性は年齢が行った、人生の折り返しで気付けるものなのに、そうなっていない。現代人は自然な人の一生のプレゼントを奪われているのだ。いつまでも何かに収奪されるか、みずから収奪するかのわかりやすさは、人間を機械化し、本来の時間の流れ、人生から人を遠ざける。魂の重さが昔の人間の魂の重さに比べて、数十分の一になっている。現実に立脚しておらず、幻想と観念が中心にあるためである。現実に立脚したなら、こんなアスファルトで地球を埋めるような文明は作れない。現実に立脚するならば、働きづめで生きるような人生を選びとることはしない。現代人は宗教と観念と幻想の時代を生きている。迷わされることのない見極めはこの時期がもっともふさわしい。それにはお盆で先祖と交わるとともに、帰りの混雑の現実のおかしさの中で、不自然な日常に戻ることの意味をもう一度問い直してみるとよいのではないだろうか。  



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